「障害をもって生まれてくる子は幸せを招く」と祖母は言った
妹が重い障害をもってうまれてきたとき、祖母はこう言った。
「こういう子は昔から『福子』って言いますのやで。こういう子がいると親はよけいに頑張って働くから、家はそのぶん豊かになる。豊かになって、家族みんな幸せになる。幸福を呼ぶ子なんや」
『福子伝説』だ。
日本はもともと、こんな言い伝えのある優しい国のはずなのに。
相模原の障害者施設が襲撃された事件で考えたことを少しだけ書こうと思う。
この事件の怖さは、無抵抗な弱者が殺されたというだけじゃない。
本当に恐ろしいのはあの言葉だ。
「障害者なんていらない」
という犯人の言葉。
刺激的なセリフだと思われたのだろうか。
ニュースや情報番組ではテロップとして何度も流れた。
私は何度も。
何度も何度も見た。
そのたびに胸がえぐられるような気持ちになった。
私が怖いのは、そう思っているのが犯人ひとりではないかもしれない、ということだ。
凶行に走らせたのは薬だけではない、ということだ。
社会はバリアフリー化がすすんでいるけれども世の中は押し隠した差別心であふれている。
たとえ口に出すことはなくても、こんなに極端でなくても、頭のどこかに心のすみに、殺人鬼と同じ言葉を抱いている人たちはたくさんいるのだろう。
だからこそ、この言葉は衝撃的であり、あんなにも何度もテロップで流されたのかもしれない。
「障害者なんていらない」。
なにも生み出さないから生きる価値がない。
動けもしない人生に意味はない。
犯人はそんなふうなことをほざいていたような気がするけれど。
寝ぼけるんじゃないよ。
生きる価値なんて、誰にもない。
人生に意味なんて、最初からない。
生きる価値も、人生の意味も、見つけだすのはその人自身だ。
価値も意味も自分自身で決めるものだ。
他人が決めるものじゃない。
たとえそれが親兄弟であってもだ。
「生きてたら可哀想だから一緒に死のう」
とか心中しちゃうことがあるけど、そんなもの親が決めるもんじゃない。
どんな人生だろうが重い障害をもっていようが他人が決めていいはずがない。
以前からブログに書いているように、私の妹は生まれつき重い障害をもつ、重度重複障害者だ。
読み書きはもちろん言葉もほとんど話せないし、自分ひとりで座ることすらできないし、スプーンを口に運ぶことも難しい。
紙オムツをつけ、車椅子に座り、生活のすべてを人に頼って生きている。
だけど私の妹は、すてきな笑顔で笑うことができる。
誰よりもいっしょうけんめい歌うことができる。
音楽を愛し。
映画を楽しみ。
アイスコーヒーとドライブが大好き。
友達もいるし、好きな人もいるし、仲の悪い人もいる。
人生を苦しむと同時に楽しむことを知っている。
すべての人と同じように。
あなたと同じように。
母が倒れた3年前から、妹は障害者施設に入所している。
家庭でのW介護は無理だったからだ。
施設の職員さんにはとても感謝している。
入所してからも私たちは毎月一緒に遊ぶし、春には2人で高校野球をみにいったし、昨日だって家族そろってファミレスで食事をした。
入所したって家族は家族。
外国に嫁いだもう一人の妹が今でも家族であるように。
ときどきウザくてときどき可愛い、どちらも私の妹だ。
そんなのあたりまえのこと。
障害者だからいらないなんて言うな!
私の妹をいらないなんて言うな!
一方で、誰かのことを「いらない」なんていう人はきっと、ほかの誰かに「おまえはいらない」といわれたのだろうな、と思う。
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少しのつもりがなかなかの長文になってしまった。
気分をかえて、本日の猫写真。
子守を拒否するサンジ君です。
(右の襖の向こうに子猫がいる)
子猫が家にきてからというもの、サンジは毎日せっせと遊んでやっていたのだけれど。
今日は
「遊びに行こうよ」
と誘っても
「やだよ」
といわんばかりに狸寝入りをきめこんでいる。
「ぼくのこと子守り要員だと思ってない?」
…うん、ちょっと。
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