在宅介護しながらウィーンへ行く(行った)ブログ 猫とビターチョコレート

40代独身、介護離職してお金はないけど、車椅子の母を連れてウィーンへ行きました。
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可哀想な幸せ

近頃は少なくなったけど。
私の妹が障害をもっているという話をすると、年配の人などから
 「可哀想に」
と言われることがある。
何が可哀想なのですか? と尋ねると
 「だって自分で動かれへんのやろ?
  五体満足なだけでも、うちらは幸せやと思わなアカン」
との答え。

こんなこともあった。
 「あなたたちの世代は可哀想ね」
と、年上の奥様に言われたのだ。
 「豊かな老後を送ろうと思ったら6千万円も必要なのよ。
  あなたたちの世代だと年金なんてもらえるわけないじゃない?
  可哀想にね」
奥様は年金を払ってるんですか?ってきくと
 「オホホ、払うわけないじゃない!」
危うくグーで殴っちゃうところだった。

「かわいそう」は本来とても優しい言葉だと思う。
傷ついたひとにより添い、抱きしめ、いっしょに泣くための言葉だと思う。
しかし人間とはグチっぽい生き物で
他人と比較することによって己の幸運を認めやすくなるらしい。
『あの人に比べたら私はまだマシ』と。
『あなたは可哀想だけど、私はそうじゃない』と。
「可哀想」という言葉ひとつで
優越感をもつことも
他を貶めることもできるのだ。
その無意識が
その優しさが
相手の心を傷つける凶器になるとも知らずに。

ちなみに私は妹を可哀想だと思ったことはない。
妹はたしかに自分では動けないけど
それでもエジプトへ行った。
ピラミッドを見た。
友達ともしょっちゅう旅行に出かけている。
温泉に行く。
焼肉に行く。
音楽会を聴く。
映画をみる。
毎日毎日、笑ってる。
ケラケラケラケラ、笑ってる。
ひとの幸せはそれぞれに違うから
あの子にとって何が幸せなのか本当にはわからないけど
毎日毎日グチをこぼしたり
ひとの悪口を言ったり
悲観的になったり
友達がひとりもいない人よりは
自分で動けない妹のほうがよっぽど幸せそうに見えるのだ。
あの子はけっして『可哀想』じゃない。


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ブレスケアのあとで

街を歩いた。

神戸の街だ。

パンとスイーツの芳香につつまれた通りもあれば

インドカレーとベトナム料理の店がならぶ通りもあるし

旧正月に湧く中華街もある。

通りごとに違う顔をもち、さまざまな国の言語が行きかう街、

学生時代によく歩きまわった懐かしい街だ。








北野の『カファレル』でチョコレートを買った。

 「あんた地に足着いてないで」

と言われるくらい、私は舞い上がっていた。

おいしいチョコレートは人を幸せにしてくれるからだ。

思わず笑ってしまうくらい。

にまにま笑っちゃうくらい。

写真のムースが絶品だった。

ジャンドゥーヤって、なんていい香りがするんだろう!






・・・実は、その直前にギョウザを食べてブレスケアのお世話になっていた、なんてのは、内緒だ。


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大量生産

安い商品を買うときに
 「まあ、どうせ大量生産のモノだから」
と口にすることがある。
工場で大量に生産される商品。
ハンドメイドに比べてモノが悪い。
作っているのは、機械だから。
まったくそのとおり。
だけど「どうせ」と言いすてられる冷たさに、ちょっと悲しくなることがある。

完全に人の手のかかわらない商品など無いに等しい。
原料を調達し型をつくり
マシンを動かし調整し
出来上がったものを検品し・・・ぜんぶ人間の仕事だ。
大量生産品の中の小さな部品、
文庫本の活字くらいの大きさしかないような
ピンセットでやっとつまめるような小さな部品、
そういうものが実は手作りだったりする。
どんな大量生産のモノでも
どんなに安いモノでも
それはたくさんの人の手がかかわったものだ。
どんなにありふれた商品でも
どこかの誰かが汗水ながし、
一生懸命働いてつくったものだ。
機械にモノはつくれない。
つくっているのは、人間だ。

とはいえ、人間がつくったとはとても思えない偶然の産物も存在する。
「呪いのチョコレート・トリュフ、または苺ヨーダ」(勝手に命名)。
怖いっていうか・・・
可愛いっていうか・・・
食べれない・・・。


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